酢ろぐ!

カレーが嫌いなスマートフォンアプリプログラマのブログ。

横浜・山下公園にビールを飲みに行ったら氷川丸と護衛艦いずもがいた話

オクトーバーフェストに行きましょうって誘われたので、山下公園(元町・中華街)に行ってきました。大体1時間40分〜2時間くらいの道のりでした。乗り換えがスムーズならもっと早いと思います。

山下公園に着くとワールドフェスタなるものがやっていました。

www.yokohama-cci.or.jp

チェコとかアメリカ(ハワイ)とかベルギーとか様々な国の料理を作っている出店と、民族衣装だったり輸入食品を売っている出店が並んでいました。

ペルーの出店もあってアルパカグッズが置かれていました。嫁がアルパカを好きなのでちょろっと見てきました。ちなみに本物のアルパカ毛が使われているアルパカのぬいぐるみは持っていて家で飾られています。

巨大アルパカ人形。みんな頭を撫でてました。

アルパカのキーホルダーがひとつ500円で売られていました。

ベビーアルパカの毛を使って編まれたポンチョがあったのですが結構なお値段がしていたので諦めました。

氷川丸

山下公園に行って氷川丸(ひかわまる)を見たときには「まじかーこれまじかー」って言ってました。

氷川丸には「日枝丸(ひえまる)」「平安丸(へいあんまる)」という姉妹船がいました。3隻とも貨客船として日本ーシアトル・バンクーバー航路に就航していました。

1937年(昭和12年)の支那事変以降、国際社会における対日感情が悪化していたのですが、1941年(昭和16年)には日本の資産凍結されてしまったためシアトル・バンクーバー航路が廃止されます。帝国海軍に徴用されて日枝丸と平安丸は特設潜水母艦に改造されて、氷川丸は海軍病院船として改造されてしまいます。

特設潜水母艦から輸送船と役割が変わっていく中、日枝丸は潜水艦の魚雷によって、平安丸は空襲によってそれぞれ沈められてしまいます。病院船は国際法で保護されていたのもあったのか氷川丸は終戦まで残りました。その後、紆余曲折あって山下公園に係留されて保存されることとなりました。

なんで氷川丸の話を知ってるかというとジパングに出てくるんですよね。「山下公園の氷川丸にクリソツやな」「あれは氷川丸の姉妹船の平安丸やで。トラック諸島で沈められはず!」みたいな会話をしてるのを見て調べたんですよね。

ハセガワ 1/350 日本海軍 特設潜水母艦 平安丸 40082

ハセガワ 1/350 日本海軍 特設潜水母艦 平安丸 40082

ところでお気付きだろうか。

一番最初の写真で氷川丸の遥か遠くに海自艦艇ぽいものがあることに。これは……!?

いずも

出雲国を由来とした護衛艦「いずも」です。艦艇の名前を出雲国から取るのは2回目で、帝国海軍の装甲巡洋艦「出雲」がいます。いずもの詳しいスペックは海上自衛隊のウェブサイトのカタログをみてください。

www.mod.go.jp

少し離れた場所(氷川丸の場所)からズームして撮影。甲板の上に毛が生えているみたいに見えるのが人間のサイズです(大きすぎてサイズ感がわからなくなる)。

右舷側から撮影。写真だとわからないけど実物をみたらものすごく巨大に感じると思います。

艦橋。白くて丸いやつが何か気になる方はWikipediaの電子戦装置をご覧ください。

おそらく普段は物資の搬入・搬出に使われるところ。

後ろから艦橋を撮影しました。

写真だと若干わかりにくいのですが左下の方にスクリーンが写ってるのが見えるでしょうか。

ヘリが搭載されているひゅうが型といずも型との違いは輸送機能で、このスペースにトラックを50台詰められるみたいです。

搭載される哨戒ヘリ。いずもでの標準運用では哨戒ヘリが7機と救難・輸送ヘリが2機が搭載されるみたいです。

近くに停泊してたおそらく海自の艦艇。僕にはシルエットだけでは名前はわからなかったです。

戦国時代から現代に続く名家・岡部氏

岡部氏といえば今日まで岸和田だんじり祭を開催するキッカケを作った大名でもあります。先日、岸和田城に行ってきたことを書きました。

岡部氏の始祖

岡部氏といえば先ほども書いた通り岸和田藩主ですね。さすがに毛利宗家などの大大名とは違い、和泉国岸和田6万石の所領ですが幕末まで治め続け廃藩置県を迎えます。その岡部氏の始まりからまとめてみました。

岡部氏は根拠地が駿河国志太郡岡部郷で、鎌倉時代に岡部泰綱が地頭になったことから始まります。

幼い岡部正綱と徳川家康との出会い

駿河国といえば有名な武将は今川義元です。戦国時代、岡部氏は今川家に従属していました。この時期、今川家には人質として連れてこられた*1松平竹千代(のちの徳川家康)がいたのですが、岡部正綱は同い歳ということもあって好意的に接していました。これが岡部氏の命運を分けることになるとは……

元服した岡部正綱は今川家の武将として名を馳せていました。その名は武田氏にも伝わっており、桶狭間の戦いによって今川氏が滅ぶと武田信玄に仕えました。

織田氏の勢力が増すと同時に武田氏の勢力は衰えはじめ、穴山信君をはじめ武田家臣は同盟国であった徳川家康の家臣となっています。岡部正綱と嫡男の長盛も例外ではなく徳川家に仕える道を選びます。ちなみに家康の人質時代につらくあたっていたとされる孕石元泰は降伏を許されず切腹を命じられます。なお、原因は家康の鷹が孕石家の庭に糞してるのにクレームをつけたための模様。

岡部宣勝、岸和田へ転封される

岡部正綱の孫の岡部宣勝は、徳川家光の信任あつく紀州徳川家の抑えとして加増の上和泉国岸和田へ転封されました(諸説あり)。こうして岡部氏は岸和田藩の繁栄に貢献していきます。

岸和田古城から城下町へ―中世・近世の岸和田 (上方文庫)

岸和田古城から城下町へ―中世・近世の岸和田 (上方文庫)

岡部長泰、だんじり祭の起源となる稲荷祭を実施

第3代藩主岡部長泰は三の丸に伏見稲荷大社を勧請して、五穀豊穣を祈願する稲荷祭をおこなったところから現代に続く「岸和田だんじり祭」の起源となったと言われています。

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幕末以降の岡部氏

岡部氏は善政を敷いていたためか、山あり海ありの土地柄にも恵まれたのか、岸和田藩は他藩と比べると比較的財政的にも恵まれていました。

最後の藩主でもある岡部長職は貴族院議員となり、東京府知事を経て、第2次桂太郎内閣の司法大臣に任じられます。岡部長職の長男の岡部長景は東條英機内閣の文部大臣に任じられます。

現代に続く岡部氏

岡部長景の長男である岡部長衡は学習院出身でバロン西*2の後輩にあたります。自身も昭和6年に行われた馬術のインターハイでは2位に入賞しています。第二次世界大戦後の昭和39年におこなわれた東京オリンピックには51歳で出場し、馬場馬術個人で19位に入賞しています(馬名:青巴号)。

岡部長衡の長男、岡部長忠氏は父の馬への愛情に感化されたのでしょうか馬事研究家として現在も活躍されています。

名前 生没 備考
1 岡部長盛(おかべ ながもり) 1568年〜1632年12月13日 岡部正綱の長男。
2 岡部宣勝(おかべ のぶかつ) 1597年〜1668年11月23日 岡部長盛の長男。和泉岸和田藩の初代藩主。
3 岡部行隆(おかべ ゆきたか) 1617年〜1688年1月27日 岡部宣勝の長男。和泉岸和田藩の第2代藩主。
4 岡部長泰(おかべ ながやす) 1650年5月8日〜1724年9月5日 岡部行隆の長男。和泉岸和田藩の第3代藩主。
5 岡部長敬(おかべ ながたか) 1680年11月23日〜1724年9月12日 岡部長泰の次男。和泉岸和田藩の第4代藩主。
6 岡部長著(おかべ ながあきら) 1712年2月2日〜1756年6月30日 岡部長敬の長男(庶子)。和泉岸和田藩の第5代藩主。
7 岡部長住(おかべ ながすみ) 1740年6月26日〜1809年9月17日 岡部長著の次男。和泉岸和田藩の第6代藩主。
8 岡部長修(おかべ ながなお) 1740年6月26日〜1809年9月17日 岡部長著の四男、岡部長住の養嗣子。和泉岸和田藩の第7代藩主。
9 岡部長備(おかべ ながとも) 1763年4月16日〜1803年12月18日 岡部長修の長男。和泉岸和田藩の第8代藩主。
10 岡部長慎(おかべ ながちか) 1787年4月17日〜1859年1月28日 岡部長備の次男。和泉岸和田藩の第9代藩主。
11 岡部長和(おかべ ながより) 1787年4月17日〜1859年1月28日 岡部長慎の長男。和泉岸和田藩の第10代藩主。
12 岡部長発(おかべ ながゆき) 1787年4月17日〜1859年1月28日 岡部長慎の六男、岡部長和の養嗣子。和泉岸和田藩の第11代藩主。
13 岡部長寛(おかべ ながひろ) 1809年4月27日〜1887年2月3日 岡部長慎の次男、。和泉岸和田藩の第12代藩主。
14 岡部長職(おかべ ながもと) 1855年1月3日〜1925年12月27日 岡部長発の長男、岡部長寛の養嗣子。和泉岸和田藩の第13代藩主、のち子爵。
15 岡部長景(おかべ ながかげ) 1884年8月28日〜1970年5月30日 岡部長職の長男、子爵。文部大臣。
16 岡部長衡(おかべ ながひら) 1923年〜2001年 岡部長景の長男。*3*4
17 岡部長忠(おかべ ながただ) 1941年〜 岡部長衡の長男。馬事研究家。*5
(18) 岡部長智(おかべ ながとも) - 岡部長忠の長男。

岡部長職の三男村山長擧(むらやま ながたか)は、朝日新聞社初代社主の村山龍平の長女と結婚し婿養子となり朝日新聞社社主となりました。村山長擧の長女、村山美知子(むらやま みちこ)氏は現・朝日新聞社社主でもあります。

岡部家墓所

高野山の岡部家墓所。

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更新履歴

  • 2017/01/27 見出しの追加
  • 2015/08/26 新規作成

関連記事

大阪・岸和田に行ってきました - 岸和田城

プロジェクトが現在進行中で一区切りとはほど遠いんだけど、少し遅い盆休みですがお休みを頂けたので実家に帰っていました。

2年前のエントリでこんなことを書いていました。

夏休みの自由研究をしておかないとぬま先生に怒られると思ったので、ありがちなテーマですが「郷土」について調べようと思いました。
僕は「だんじり祭り」で有名な大阪府岸和田市の出身です。なので岸和田城についてアレコレ書いてみようと考えました。

結局2年越しになってしまったけど、少ない休みに岸和田城へ行くことにしました。岸和田って地元なんだけど、いつでもいけると分かってると逆に行かないことってありますよね。

大阪に27年くらい住んでたけど通天閣に登ったことないし、東京に来てからは東京タワーに登ったことないし、そういうものなのかもしれません。

……ということで、我々は岸和田城に向かった(写真は羽田空港です)。

岸和田の由来についてや岸和田城の天保城郭図と現在の地図との比較に関しての詳しい内容はこちらのエントリでまとめました。

岸和田藩主の岡部氏についての詳しい内容はこちらのエントリでまとめました。

岸和田城

別名ちきり城と呼ばれている。千亀利と書いてちきりと読みます。輪郭式平城なので本丸を囲むように曲輪が存在しています。

本丸から虎口へ入る多聞櫓。

虎口から覗いた岸和田城。

岸和田城です!(復興)天守と小天守です。

中は博物館になっています(大人300円)。

岸和田城の中に入るとこんな感じになっています!クーラーも効いていて、20年以上前に入った時には暑かった記憶があるのでつい最近改修されたんだと思います。すごいで。

岡部氏の治世が長かったので、博物館部分には歴代の岡部氏の家宝や具足などが展示されていました。

大阪城や名古屋城、水戸城など徳川将軍家の居城と比べるとかなり小さい天守なのであっと言う間に最上階です。最上階部分には模型が置いています。これはらんかん橋あたりから岸和田城の方を見ているのかな。

最上階から外を見てみました。旧寺田財閥当主の別邸である五風荘が見えます。現在、がんこフードがレストランとして活用しています。

山の方を見ると、岸和田高校があります。

海岸の方を見ると「八陣ノ庭」があります。これは諸葛亮孔明の八陣法をテーマにして作庭されたものです。

本丸を背面から見ると、犬走り(いぬばしり)があるのがわかりますね。犬走は堀と石垣の間にある平地のことです。犬走が有名なのは彦根城でしょうか。犬走りがあるのは石垣が崩れるのを防ぐ役割があるためです。

岸和田城の石垣には泉州砂岩が使われていました。これは脆くて平成11年の豪雨で崩れてしまいました。石垣の色がまだらになっているのは、改修工事の際に元の岩と違うものを使ったからですね。より強度のある花崗岩で補修されました。

二ノ丸

昔は二の丸では猿が飼われていて、トタンで作った小屋でお茶やお菓子が買えました。僕が高校生頃までは残っていた記憶があるのですが、2015年に訪問した時には猿小屋や古いお茶屋さんは消えていました。

岸和田城は観光しにくい

あと、岸和田駅の周辺にはロッカーがなくて困った。これは南海岸和田駅の改札前のロッカーで一番大きいサイズのやつだけど、旅行用のキャスターを入れるのには向いてなかった。

観光の際にはホテルに預かってもらった状態で歩いた方がよさそうです。うちの母の友達が近くにいたので一時的に荷物を預かってもらえたのが幸いでした(地元の強み)。

茨城・水戸に行ってきました(1) - 水戸城址

水戸まで来たのは別件のついでなのですが、久しぶりに城郭を見にきました。名城100選のうち14番の「水戸城」です!

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水戸城は、那珂川(なかがわ)と千波湖(せんばこ)に囲まれた天然の要塞です。いまも千波湖は残っていますが、大正期の干拓事業と戦後の食糧難の時期に田を増やすための干拓によって大半が埋め立てられています。ところで那珂川といえば艦これでいうところの艦隊のアイドルですね。那珂ちゃんのファンやめます。

水戸城の歴史

常陸国(ひたち)の有名な武将といえば佐竹義重と佐竹義宣ですね。佐竹氏以前の水戸城は誰のものであったか調べました。

水戸城の歴史は古くて元々「馬場城」と呼ばれていました。平安時代に平国香の子孫である馬場資幹が築城を始めたところから「馬場城」と呼ばれるようになりました。室町時代になると江戸氏に押され、代わりに馬場城に江戸氏が入城します。

小田原征伐のときに石田三成の取り計らいによって豊臣方についた佐竹氏への褒美として常陸一国を与えられます。北条方についた江戸氏は追い出され、代わりに佐竹氏が入城します。この際、城の名前を「水戸城」に変えたようです。豊臣家の後押しを得た佐竹義重は、馬場氏(職名から大掾氏とも)の一族を太田城へ招いて皆殺しにします。これにて佐竹氏の常陸統一を成し遂げます。

佐竹義重は隠居して、子の佐竹義宣に家督を譲ります。義宣は恩義のある石田三成方の西軍につこうとしたのですが、父・義重はそれを許さず対立します。結果的には父の方が正しかったのですが、親子が対立していたため家臣団も二分してしまい、佐竹氏の関ヶ原の戦いでは中立を保っていました。戦後処理の際に徳川家康によって出羽国久保田へ領地替えさせられます。これは上杉氏と共謀して徳川軍を追撃しようと目論んでいたためとか、関ヶ原に来なかったので無傷の兵隊が江戸近郊に控えていたのを嫌ったためと諸説あります。義重の嘆願により改易を逃れることができたのは良かったのではないでしょうか。

奥州を睨む要所として、徳川家康は十男の徳川頼宣に水戸城を与えます。

こうして、馬場氏によって築かれた水戸城は、江戸氏、佐竹氏、徳川家によってその都度大規模改修されて今に至ります。

水戸城は徳川家康が政権を握ってから徳川家に渡ったのもあってか、和歌山城や名古屋城のように石垣と天守を築いてガチガチに守りを固めることはやっておらず、土塁と空堀しかありません*1とはいってもその空堀は他とは規模が違うのですが……

水戸城址

さて、本題の水戸城址です。松山城のように分かりやすいシンボルがないので今回は天保期の城郭図を元に、観光ポイントにピンを立てておきました。

水戸藩を二分とした弘道館戦争によっていくつかの藩校の建物が焼かれて、明治政府の廃城令によって大手門が破却されて、先の大戦の空襲で御三階櫓と彰考館が焼かれて、現存するのは「薬医門」と「藩校(弘道館)」のみです。

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現在の地図をGoogle Mapで比較してもらうとわかるのですが、千波湖は埋め立てられて、内堀は道路になっています。

大手前

伊予松山城もそうでしたが政庁である城を中心に道路が整備される傾向にあります。水戸駅から出ると木の生い茂る丘が見えました。そこに向かって歩いていくと道路がありました。県道232号線(市毛水戸線)です。

水戸城は水堀のない城で空堀と土塁が有名なので、市毛水戸線は空堀跡で多分間違いないだろうと木の生えている丘沿いに歩いていました。すると石碑がありました。このあたりは大手町と呼ばれていたみたいです。大手町と呼ばれる町名は日本のいたるところにありますが、大手門の近くに付けられる名前です。

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自信を持ったのでずんずん先に進みます。道路の左右が一段高い丘になっているのがわかりますでしょうか。

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これは立派な土塁だー!

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あとで判明するのですが、少し右上に写っている石橋があります。これが「大手橋」です。手前の階段から上に上がりました。

大手橋

二の丸と三の丸は大手橋によって繋がっています。

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下図は幕末期の大手門です。この写真は三の丸から二の丸方面を見ています。

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現在の大手橋。同じ場所で撮影しています。

大手門は明治の廃城令で破却されて今はありません。将来的にこの大手門を復元する計画があるようです。

三の丸

佐竹氏は三の丸に居館を建てていたようです。現在は弘道館があります。太陽の光が強すぎて正門が写らない……

近付いてみても、日照りが強すぎて影しか写らない。これがiPhoneのカメラの限界か……

参観料200円払うと中に入れてもらえます。弘道館の敷地の中には版木屋さん(?)があって、笠間焼きなど陶器や版画などを売っていました。

水戸独特なのか納豆鉢が売られている。使い道がなさそうだなぁと思って買わなかったけど、お土産には良さそうだった。

おばちゃんが1人店番をしていて、コーラを飲みながらお店について色々と話しをしていました。斉昭公や藤田東湖の直筆の書を版木にして江戸時代から受け継いでる職人さんとのこと。お土産屋のおばちゃんかと思って話ししてました……。すみません。

弘道館の本館。

奥には尊攘(尊王攘夷の意)の書があります。明治維新はここから始まった……のかはわかりませんが、薩長の志士に影響を与えたのは間違いありません。縁側も公開されています。

中に入ると歴代の水戸藩主の資料が展示されていました(撮影禁止)。

使用禁止でしたがトイレと風呂がありました。

風呂です。どうやって入っていたのか不明。湯浴み用なのかな?

しかし、学校なのに何故か風呂があるのか。

二の丸

水戸徳川家は二の丸を居城としていたようです。本丸は江戸氏、三の丸は佐竹氏が使っていたので、縁起を担いで同じところを居城とするのを避けたのでしょうか。二の丸には、藩邸と「彰考館(しょうこうかん)」がありました。

二代目水戸藩主の徳川光圀(水戸黄門のひと)が歴代の天皇の歴史について編纂することを決め、250年の時間をかけて397巻からなる「大日本史」を完成させました。編纂にあたり方針や考察をおこなう施設として用意されたのが彰考館でした。この大日本史の編纂の過程で水戸藩の思想に与えた影響は大きかったようで明治維新の際には藩を二分する戦争に至ります。

彰考館の跡地には、現在二の丸展示館と水戸市立水戸第二中学校があります。

残りは水戸市立水戸第二中学校です。現存する薬医門を模した正門があります。

後ほど写真を掲載していますが、現存する薬医門を模した割には簡易な作りとなっています。こっちはメンテナンスを考えているのかもしれません。

水戸市立水戸第二中学校の正門の隣には、大日本史編纂の記念碑が建っています。

f:id:ch3cooh393:20150731142551j:plain

本丸

二の丸を超えて本丸までやってきました。二の丸から本丸方面を見た図。土塁ってレベルじゃない空堀。

最終的な城主が水戸徳川家なだけあって、空堀のスケールが他の城と比べて段違いに大きいです。

水戸駅方面。

那珂川方面。

場所はこのあたりです。黄色の線が線路として使われています。天保期にあった橋から変わっているでしょうが、当時から二の丸と本丸をつなぐ橋があったようです。

f:id:ch3cooh393:20150731194641p:plain

本丸です。江戸氏の時代には居城が置かれていました。幕末期には武家屋敷が並んでいたようです。本丸には現在、茨城県立水戸第一高等学校があります。もう夏休みに入っているのか部活動をしている生徒以外いなかったので堂々と中に入っていました。

校門を入って道沿いにいくと左手側に薬医門が見えます。

薬医門の正面から撮影しました。

圧倒的な歴史を感じる……

明日はひたちなか市に向かいます。

関連記事

次の日のエントリです。

blog.ch3cooh.jp

この他にも城郭・城址について書いています。まとめておりますのでこちらのページをご参照ください。よろしくお願いします。

*1:和歌山城は南海道の要所で、名古屋城は東海道の要所だっけ?

織部焼きの茶碗を買った話

よく嫁と一緒に調布に行きます。ときどき調布駅前でフリーマーケットをやっているんですよね。なんか掘り出し物がないかなぁとブラブラみていたところ、茶碗を並べているおばちゃんがいました。

そのおばちゃんは茶道をしていたわけではなくて、器が好きでお茶を点てて飲んでいたりするそう。お茶を飲む前に器を並べてどれを使うか選ぶのが好きなんだって。そんな話をしていたところ少し変わった織部焼を発見しました。

器全体に銅緑釉をかけた総織部と呼ばれる茶碗はよく見かけるのですが、染め付けと焼く前に削ったと思われる痕があって珍しいのでついつい買ってしまいました。

わかりにくいけど左側に削られたあとがあります。

そうそう、織部焼といえば「へうげもの」なのですがつい先日20巻がでましたね。

へうげもの(20) (モーニング KC)

へうげもの(20) (モーニング KC)

最近新刊が出るのが遅くなっているような気がします。前巻をどこまで読んだか忘れたけど加藤清正が暗殺されたところだから慶長16年で、大坂冬の陣が慶長19年。へうげものも作中の時間で残り3年しか残ってないのかぁ。

戦国時代から現代に続く名家・仙石氏

仙石氏といえば仙石秀久が主人公の「センゴク」。

センゴク一統記(1) (ヤンマガKCスペシャル)

センゴク一統記(1) (ヤンマガKCスペシャル)

仙石氏は元々土岐氏の家臣でしたが土岐氏の没落後は斎藤氏に仕えます。仙石秀久の父・仙石久盛は斎藤氏に仕えましたが織田信長が美濃へ侵攻を始めると徐々に旗色は悪くなり、斎藤氏との親交が強かった兄の仙石久勝は廃嫡されて、仙石久盛四男の仙石秀久が家督を継ぎます。

斎藤龍興の居城稲葉山城(のちの岐阜城)が落城すると仙石氏は織田信長に臣従します。信長は家臣の木下藤吉郎の馬廻り衆に任ずると、仙石秀久は木下隊として各地を転戦します。姉川の戦いでは浅井家の兵を討ち取ったことで一領主として立身します。その後も羽柴秀吉に従い、最古参の武将として取り立てられていきます。

本能寺の変後には、明智光秀と通じた淡路・四国衆の抑えとして淡路に派兵されて一国の領主となります。

九州征伐の際には、長宗我部氏を従えて軍監として前線に向かいますが島津氏にこっぴどくやられて淡路に敗走してしまいます。その後改易されて高野山に送られます。

小田原征伐の際には活躍したことから大名に復帰します。関ヶ原の戦いでは秀久の息子たちが西軍につく中、秀久は東軍として徳川秀忠と共に主戦場へ向かい、そのことから外様大名にも関わらず徳川秀忠に特に取り立てられてます。

名前 生没 備考
仙石久盛(せんごく ひさもり)
1 仙石秀久(せんごく ひでひさ) 1552年2月20日〜1614年6月13日 仙石久盛の四男。信濃小諸藩の初代藩主
2 仙石忠政(せんごく ただまさ) 1578年〜1628年5月23日 仙石秀久の三男。信濃小諸藩の第2代藩主、のち信濃上田藩の初代藩主
3 仙石政俊(せんごく まさとし) 1578年〜1628年5月23日 仙石忠政の長男。信濃上田藩の第2代藩主
- 仙石忠俊(せんごく ただとし) 1617年8月10日〜1674年8月25日 仙石政俊の長男。家督を継ぐ前に早逝。
4 仙石政明(せんごく まさあきら) 1659年4月22日〜1717年7月14日 仙石忠俊の長男、仙石政俊の養嗣子(孫)。信濃上田藩の第3代藩主、のち但馬出石藩の初代藩主
5 仙石政房(せんごく まさふさ) 1673年6月7日〜1735年6月14日 仙石政治*1の長男、仙石政明の養子。但馬出石藩の第2代藩主。
6 仙石政辰(せんごく まさとき) 1723年9月20日〜1779年10月3日 仙石政因*2の七男、仙石政房の養子(娘婿、正室が仙石政房娘)。但馬出石藩の第3代藩主。
7 仙石久行(せんごく ひさゆき) 1753年11月22日〜1785年10月19日 仙石久近の三男、仙石政辰の養子(娘婿、正室が仙石政辰娘)。但馬出石藩の第4代藩主。
8 仙石久道(せんごく ひさみち) 1774年6月20日〜1834年10月6日 仙石久行の長男(庶長子)。但馬出石藩の第5代藩主。仙石騒動を招いた遠因とされる人物。
9 仙石政美(せんごく まさよし) 1774年6月20日〜1834年10月6日 仙石久道の長男。但馬出石藩の第6代藩主。
10 仙石久利(せんごく まさよし) 1820年4月5日〜1897年6月6日 仙石久道の四男、仙石政美の養子(異母弟)。但馬出石藩の第7代藩主。
11 仙石政固(せんごく まさかた) 1844年6月22日〜1917年10月23日 土岐政賢(仙石久利の兄)の長男、仙石久利の養子(甥)。但馬出石藩の第8代藩知事、のち子爵。
12 仙石政敬(せんごく まさゆき) 1872年5月26日〜1935年9月16日) 仙石政固の長男。子爵。宗秩寮(のちの宮内庁)総裁
13 仙石久英(せんごく まさひで) M28.7.5.〜S35.10.13 仙石政敬の長男。子爵
14 仙石政恭(せんごく まさやす) T12.7.30〜S47.3.29 仙石政英の長男。

仙石政恭氏は独身のまま死去したため、出石藩仙石家は断絶している*3

但馬の殿様

但馬の殿様

関連記事

*1:仙石秀久の長男仙石久忠の長男仙石久治の長男、仙石秀久の玄孫にあたる。

*2:仙石政房の生母の父にあたる

*3:ここまで書いて現代に続いていないことに気付いた

戦国時代から現代に続く名家まとめ

戦国時代から活躍していた大名や旗本公家が幕末期を経て、明治政府下では華族となって血脈が続きました。

  称号 主な人物  
岡部氏 子爵 岡部宣勝 岡部家
島津氏 公爵 島津義弘、島津斉彬 島津家宗家
仙石氏 子爵 仙石秀久、仙石政固 仙石家宗家
宗氏 伯爵 宗助国 宗家
伊達氏 伯爵 伊達政宗 伊達家宗家
伊達氏 侯爵 伊達宗彰 宇和島伊達家
長氏 男爵 長連龍 長家
藤堂氏 伯爵 藤堂高虎 藤堂家宗家
徳川氏 公爵 徳川家康 徳川家宗家
細川氏 侯爵 細川勝元 細川家宗家
毛利氏 公爵 毛利元就 毛利家宗家
脇坂氏 子爵 脇坂安治 脇坂家