「宇都宮〜日光に行ってきました(4) - 日光東照宮 - 酢ろぐ!」では、日光東照宮=徳川家康について少し触れました。その徳川家康が幼少期に信長の父によって誘拐されていなかった、という仮説の元となる史料が発見されたそうです。
まずは通説の説明から入ります。徳川家康は、幼少期にあっちこっちの家で人質にされていた話は有名です。
徳川家康の人質な幼少期まとめ
松平清康(家康の祖父)が暗殺され、内輪揉めをしていた松平氏は衰退していました。松平氏の居城である「岡崎城」が織田信秀(信長の父)に攻められそうになります。家康の父である松平広忠は、今川義元に対して応援を依頼します。今川氏へ忠誠を示す証として竹千代(家康の幼名)を人質として差し出すことを提案します。
竹千代の移送中に広忠の重臣(戸田康光)の裏切りによって誘拐されて織田信秀の手中に入ります。しばらく織田家で過ごしていた竹千代は、(第四次)安城合戦によって捕まった織田信広との人質交換で今川義元の手に戻ってきます。
その後、元服した家康は桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、混乱する今川氏の隙をついて、岡崎城に入り今川氏から独立します。ここまでが、家康の幼少期に苦労したという有名なストーリーです。
竹千代が今川義元の手に入るまでの流れをまとめます。
- 松平広忠 → 戸田康光 (竹千代の今川氏へ移送を依頼)
- 戸田康光 → 織田信秀 (金1,000貫で今川氏のライバルの織田氏に売る)
- 織田信秀 → 今川義元 (捕虜になっていた織田信広と人質の交換をする)
……というのが今までの通説でした。
なお、戸田康光は織田に寝返ったということで、戸田氏は康光とその嫡男の戸田尭光は今川義元によって滅ぼされてしまいます。
実はこの幼少期がすこし違うかも?
日覚という法華宗の僧侶が書いた「菩提心院日覚書状」に、信秀はそもそも岡崎を支配していたという史料が出てきたと、読売新聞が報じていました。
引用します。
「岡崎は弾正忠へ降参し、命からがらの様子」「弾正忠は三河を平定し、翌日、京都に上った」などと記されている。「弾正忠」とは、当時の官職の名称で、織田家は信長まで3代にわたってこの職を名乗っていた。村岡教授が現地で調査したところ、この書状は1547年(天文16年)に書かれたことが判明し、弾正忠とは信秀、「岡崎」は家康の父、松平広忠を指すことが確認されたという。
このことから「松平広忠は信秀に降伏した」「信秀は三河を治めることに成功していた」のかもしれないということです。これらが史実だった場合どういうことになるかというと、以下の通りです。
通説では、同年、竹千代の護送役の田原城(現在の愛知県田原市)城主、戸田康光が裏切って信秀に竹千代を売り飛ばしたとされている。しかし、これまで、戸田がなぜ裏切ったのか謎とされてきた。
村岡教授は「広忠が信秀に降参して竹千代を織田家へ差し出した可能性が高い」と指摘。通説については「天下人となった家康が父親を神格化するため、誘拐されたことにしたのかもしれない」と推測する。
以上のことから、松平広忠は岡崎城に入り織田信秀と対立して戦うが命からがら降伏して、自分から竹千代を差し出して許してもらい、その後岡崎を占領した今川義元に忠誠を誓います。その後、捕虜になっていた織田信広(信秀の長男、信長の兄)と竹千代を交換して、結果として竹千代が今川氏の人質になったという仮説が浮上してきたようです。
新説のケースで、竹千代が今川義元の手に入るまでの流れをまとめます。
- 松平広忠 → 織田信秀 (岡崎城で降伏した代わりに嫡男を質に出す)
- 織田信秀 → 今川義元 (捕虜になっていた織田信広と人質の交換をする)
もし、この説が正しいとすれば、濡れ衣を着させてしまった戸田康光は可哀想な人なのでは……。戸田氏は何故潰されてしまったのか……
追記
武将ジャパンでこの件が既に取り上げられていました。仕事がめっちゃ早い。