天正6年から438年も続いている世田谷ボロ市に行ってきました。毎年1月15日・16日、12月15日・16日に開催されています。
(2016年1月16日撮影)
開催情報 | |
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開催日 | 毎年1月15日・16日、12月15日・16日 |
開催時間 | 午前9時 ~ 午後8時*1 |
場所 | 世田谷区ボロ市通り |
交通機関 | 東急世田谷線 世田谷駅、上町駅 東急・小田急バス 上町停留所下車 |
出店数 | 600店〜700店 |
問合せ先 | 世田谷総合支所地域振興課 03-5432-2831 世田谷ボロ市保存会 03-3429-1829 |
ボロ市は、世田谷で開催されている規模の大きな蚤の市ですね。……と言ってしまうと元も子もないか。ボロ市の起源については後述します。
ボロは「使い古して使えなくなった布切れ」「着古して着れなくなってしまった服」を指すのですが、今日*2、ボロ市へ行ってきた限りでは古着の販売はむしろ少なくて、食べ物、ハンドメイド商品、骨董品、植木が多かったです。
日付を固定して開催されるので通年は平日に開催されるということなのですが、今年は土曜日と重なったみたいで混雑していました。
ボロ市の起源
蚤がついているような古着を売っていたから「蚤の市」。虫の名前が付いているのはネガティブな印象を与えるためか最近は「ノミの市」と呼ばれていたりしますね。
「ボロ市」も昔は同じように古着の売買が中心だったようでこの名前が残っているそうです。
ボロ市のはじまりと当時のことについて
ボロ市のはじまりは、楽市と言われています。
関東一円を支配にしていた北条氏政が発した「楽市掟書」により、家臣の吉良氏朝が世田谷宿に天正6年楽市を開きました。小田原と江戸とを結ぶ世田谷を賑わせようとする施策のひとつだったようです。
既に天下は織田信長のものとなっており、織田信長が朝廷へ「天下取ったたし改元しよ?」と改元の奏請*3したことにより天正期が始まったとも言われています。改元に反対した足利義昭は後日京都を追放されます。
さらに天正6年といえば、織田家の方面軍が大活躍しており、方面軍の中でも特に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が統治者としての成長していた時期です。この時期、北条氏は織田・徳川と同盟を組んでいた*4のもあり、織田信長と敵対する他国と比べると比較的平和な時期だったのではないでしょうか。
当時敵対する国といえば、上杉家と武田家はカリスマパパが死去して代替わり中*5、毛利家は羽柴軍との戦争中です*6。
利害関係の少なかった長曾我部家は絶賛四国平定中、島津家は南九州の攻略中です。
なお、ボロ市の前身となる楽市を開いた北条氏政は、のちのち豊臣秀吉に小田原征伐の責任を取らされて切腹させられます。
楽市からボロ市へ
時代が進み、徳川の時代となったあとも世田谷宿の楽市は形を変えて続いていました。
農閑期の副業として草鞋(わらじ)を売ったり、農具やぼろが売り買いされていました。草鞋にぼろきれを編み込むと強度が増すらしく、ボロはすぐに売り切れるというくらいほどだったようです。「ボロ市」の由来はこのあたりにあるようです。
宅地開発に伴い世田谷から農家が減り始めると農具やぼろを扱う店は減り、現在に至るようです。
ボロ市の開催範囲
ボロ市は約600〜700店が出店しています。そのため広範囲でボロ市が開催されています。ボロ市のお店がある通りに色をつけてみました。大通りだけ色をつけていますが場所によっては、脇道にもお店が並んでいあます。
15日の終了間近。明日もあるからか19時頃には多くのお店が店じまいしていて人も少なくなっていて、こんな感じです。
ハンドメイドのアクセサリーを売っているお店が多かったです。このお店ではペンダントを売っていました。
ボロ市保存会の本部です。隣には警視庁の待機小屋のようなものがあり複数人がストーブで暖を取っていました。
本部の前に代官屋敷があります。世田谷は彦にゃんでおなじみの井伊家の領地だったのですが領地の運営にはノータッチで、吉良家の滅亡後に帰農した大場氏が代官として実際に領地の運営をしていました。大場氏は桓武平氏の流れをくむ大庭氏の末裔で、帰農したとはいえ元々武家で血筋もよかったので代官として任命されたのかもしれません。
ボロ市で有名な代官餅は今日も1時間くらい並ばないと買えなかったようですが、18時前には売り切れていました。朝から行かないと買えないのかもしれません。
戦利品は、志野焼のぐい呑みです。日本酒を買ってこねば。