こんばんは、第八のわだ、和田です。
このエントリーは、Wadavent Calendarの8日目の記事です。この記事をみた和田さんは、匿名でかまいませんのでお住いの都道府県と家紋についてコメントしていただけると嬉しいです。
Wadavent Calendarについては以下の記事をご覧ください。
「Wadavent Calendarはどう考えてもネタ枠やろ……」と思って、遠くから見ているだけで済ませようと考えていました。
そんな風に思っていた矢先、masawada氏の父上(id:wabysprg)が和田家のルーツについて触れているのを見かけました。
待って。なんでmasawada氏の父上がはてなブログをやってて、しかもwadavent calendarで記事を書いてるの… https://t.co/0KAODqVfWw 僕は和田家のルーツはひとつではないという記事を書かないといけないのかもしれない(真顔
— さくさん (@ch3cooh) 2015年12月7日
和田という苗字自体が、農耕民族からすると田んぼを連想させる漢字で各地に偶然多発的に生まれています。その語源は様々だったりもするのですが……
和田さんで一番の有名どころといえば「鎌倉の和田」さんでしょう。このエントリでは、鎌倉御家人の和田さんや信濃方面の和田さんではなく、日向方面の和田のルーツを紹介したいと思います。急遽エントリしたもので慌てて書いたため乱文失礼します。
和田さんの分布については後述したいと思います。
自己紹介
僕はネット上では主に「さくさん」を名乗っています。「なんで酢酸なのか?」とよく聞かれます。これは色々と経緯があって毎回説明してるんですけれど、僕の名前をつける時に父が候補として挙げていたのが「作太郎」です。
僕が中高生の頃、インターネット普及期でITバブルに沸く時代でした。僕も他の人たちと同じようにネット上に黒歴史を構築していました。その時に付けていたハンドルネームが「さくたろう」です。若干名前が長いので仲の良い人からは「さくさん」と呼ばれていました。
とある日、同じ職場で働く同僚を勉強会に連れて行くことになったのですが、黒歴史がバレてしまう!!と焦った僕はハンドルネームを変えることを決意します。さくさんをもじり「酢酸」から「CH3COOH」と変えて、現在に至ります。
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実名で本を書いていたりもするので、この時のハンドルネームの変更はあんまり意味がなかったのですが……まぁ、自己紹介はこれくらいにしておきましょう。
和田の分布
Wadavent Calendarということなので、和田について書きましょう。
和田義盛に由来する和田さん
初日に id:kamawada さんが書かれていましたが、ゆーすけべーさんは「和田義盛(わだ よしもり)」にまつわる鎌倉の出身のようです*1。
和田義盛は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将です。三浦氏の支流で、相模国三浦郡和田(神奈川県三浦市)または安房国和田御厨(千葉県南部)に所領があったことから和田を名乗りました。
この時代、領地の運営は一族経営なので領土が広がると、同じ名前の人ばかりになってしまいます。本家と分家で同じ苗字を名乗るのはおこがましいので、分家は土地の名前を名乗ったりします「三浦さんところの和田さん」みたいな。
義盛は鎌倉幕府の軍奉行(現代でいうと参謀)として奥州や九州に渡り幕府に貢献していたのですが、最終的には鎌倉幕府とのいざこざで挙兵して「和田合戦」を経て、和田一族は討死してしまいます。
8日目に id:wabysprg さんは長野県の和田家のルーツの話をされていました。和田村(現・長野県小県郡長和町)に由来する和田さんとのことでした。長和町には経歴が不明ながらも八幡社があり和田義盛が祀られています。
和田村は前述した和田合戦で、一族滅亡の危機にあたり逃げ隠れた人間の名前がその由来だそうです(真偽のほどは別として)。
- id:kamawada さんは鎌倉の和田さん
- id:wabysprg さんは信濃方面の和田さん
……と、距離的に結構離れてはいるのですが「和田義盛」にまつわる苗字です。
他の由来を持つ和田さん
「和田」というのは田に関連した言葉というのもあり全国的に分布しています。「川が蛇行している低湿地」の輪田(わた)、円田(えんだ)から転じて地名になってところがあります。
他にも「和田」は、わた(海のこと)に由来していた*2とか、にぎた(和田)氏*3に由来しているとかなんとか。
由来が複数あることは「和田を称する地名」が日本の中にも複数あることを示しており、同じ和田だからと言って共通の先祖を持っているわけではないことになります。
戦後、全国へ和田さんが広がる
江戸時代の統治は、あくまでも殿様が拝領した領地ごとの統治運営でした。
殿様とその家臣団は頻繁に変わるけれどそこに住んでいる人間は土地とセットです。人材の流出(移動)は多少あったにせよ、基本的には「○○」という名字の人間は根拠地周辺に集まっていました。根拠地というのはここでは先祖代々の土地みたいな感じで使っています。
明治維新を迎えても構造的には同じで、富国強兵のもと兵士を集める必要がありました。戸籍が管理されていましたのであまり状況は変わっていません。
第二次世界大戦後に徴兵制が解除されると国に縛られることなく自由に引っ越しができるようになりました。
戦後の復興とその後の高度成長期には慢性的な人手不足となり、日本全国…特に都市部での働き手の需要が増えていた時期で、土地の相続権を持たない次男三男坊が出稼ぎにでました。数年が経ちそのまま都市部に定着したのがほとんどではないでしょうか。
和田さんも他の家と同じように全国的に広がっていきます。
僕の所属している「和田」の血統は、宮崎県東臼杵郡がルーツなようです。祖父の代に宮崎県を出て大阪に移り住んだようです。
宮崎県東臼杵郡の和田さん
ちなみに宮崎県東臼杵郡はここです。宮崎県は知っていても、東臼杵郡は行ったことも話に聞いたこともないのでいまいちピンと来ません。
宮崎県自体に一度も行ったことがなく、むしろ九州に行ったこと自体が人生で3回しかありません。中学生の頃の修学旅行で福岡へ、専門学校の臨時講師をしに福岡へ、Splatoonのイベントで佐賀・呼子へ。
門川町の反対側に人吉(ひとよし)が見えますね。前職の同僚が、人吉出身だったのを思い出しました。近いのでしょうか。
宮崎県東臼杵郡には「和田」と呼ばれる土地があり、そのあたりが僕の和田家の根拠地なのかもしれません。父も祖父も亡くなっており、もはや確認する手段はありませんが……
後述する除籍謄本上では門川に住んでいたことになっていました。山が寂れて港が栄えるのは世の常なので、何かがキッカケで港町で生活することになったようです。
結構遠い。
和田家の系譜
さて、僕の名乗っている「和田」はどういう系譜なのでしょうか。家系図を追いかけてみたいと思います。
先に断っておきますが。前述した通り先祖に有名な武将がいたり、近代に入ってから地元に名士がいたりということはありません。農家か建築業だと思います。おそらく後者のような気がします、なんとなく。
叔父に話を聞いてみたところ、醤油店だったらしくそれなりに裕福な暮らしをしていたらしいですが、祖父の時代には実家が没落していったとのことでした。
戸籍・除籍謄本を遡って調べてみた
戸籍制度については機会があればまとめたいと思いますが、戸籍というのは徴兵と徴税のために670年ごろからある家単位でまとめた記録です。
……とは言っても当時は日本が小国に分裂していた時代で、日本国内で今のフォーマットの戸籍ができるのは明治まで待つことになります。明治頃の戸籍謄本は家督の継承を中心とした家制度を記載したものなので、何年何月何日に家督を継いだということが書かれています。女子は他家に嫁いでいくので記録を辿るのが難しいです。
女系を含めると膨大な数になってしまい追い切れないので、男系だけに絞って戸籍謄本・除籍謄本を取り寄せました。
謄本の取り寄せはこのエントリのためにしたわけではなくて、このエントリを書いている最中に取り寄せしていました。ひとりずつ遡っていったので半年以上かけています*4。
家系図にまとめてみた
取り寄せた戸籍謄本・除籍謄本を元にしてPowerPointで図を起こしたものです。
基本的な家系図の書き方に合わせていますが、関係者が多くなってしまう*5ので女子は除いて、右に長男・左に末っ子になるように順に配置しています。直線が実子、二重線が養子です。太文字が嫡男(家督の継承者)です。
父は既に他界していて先祖について聞くことができません。戸籍・除籍謄本を元にした推測をまとめていきます。
僕の高祖父の祖父にあたる和田半太郎は実子・和田良吉がいたものの体が弱かったようです。半太郎の実子の和田良吉もその血を継いでいたのか体が弱くて、子供が作れなかったようです。
この時代は、「血縁」よりも「家」の維持の方が重視されていた時代でもあったので、経緯はよくわかりませんが金丸國太郎と和田半太郎の妹・和田エツの子・金丸茂太郎を養子に迎えます。
茂太郎を養子に迎えた年に半太郎が亡くなります。ひょっとしたら半太郎が晩年近くで後継者がいないことを憂いて養子を迎えたのかもしれませんね。
金丸家とは強い縁戚関係にあったようで、和田良吉の妻ユキは、金丸禮蔵の子にあたります。
金丸姓について
「名字ランキング」というサイトがあります。地域別に名字とランキングが掲載されているサイトです。
データソースが明記されていないため鵜呑みにはできないのですが、宮崎県東臼杵郡門川町の名字として多いのが2位が「金丸」、15位が「和田」です。ちなみに8位の「長友」も和田家の遠縁にあたります。
なぜ金丸さんが多いのかというと、この金丸氏は日向国(現・宮崎県)の領主日向伊東氏の家臣に当たります。
戦国時代を描いた物語は中央(京都・尾張・江戸)でのやりとりが中心で、あまり九州がピックアップされることがありませんよね。大内、大友、龍造寺、島津あたりはメジャーですけれど。
伊東氏は島津氏との戦い続けて勢力を増していきますが、島津義弘の勢いには及ばず徐々に衰退していきます。豊臣秀吉の九州征伐に貢献したことで伊東氏は大名に復帰することができ、関ヶ原でも東軍についたことで領地を安堵され、そのまま明治維新を迎えます。のちに子爵となります。日清戦争時の元帥・伊東祐亨は伊東氏の嫡流です。
伊東氏の領地が安堵されたことで、平和な江戸時代に家臣である金丸氏も長期間、家を存続させることができたため、その支流を宮崎県内に点在させることができたのではないかと思います。もちろん本家筋から離れた金丸氏の傍流は武家ではなく帰農して、それぞれの土地に土着していたことも想像できます。
金丸國太郎・金丸禮蔵氏らが本家からどれだけ遠いのかはわかりませんが、養子縁組の相手としては妥当だったのではないかと思います。
大正時代以降の和田家
さて、話を戻しましょう。
和田半太郎が亡くなり、その10年後に良吉が隠居して、茂太郎に家督を相続させています。茂太郎には既に4人の息子がいたので自身のような後継者問題は起こらなかったでしょう。茂太郎の長男・和田良八が家督を継いでいきます。
和田茂太郎の三男で、僕の祖父にあたる和田正信がいつどのタイミングで大阪に来たのかはわかりません。僕の父が大阪で生まれていることから昭和前半には大阪で住んでいたようです。祖父は僕の父が小学校の時期に亡くなっているので、祖父の話は「明治時代の生まれにしては身長が180cmを超えていて大きかった」くらいしか話に聞いたことがありません。
昔、祖父の家(父の実家)に行ったときに母屋の隣に大きな工場があったのを覚えています。三男ということもあり宮崎の地では土地や家業を相続できないので、なにかのタイミングで大阪に出てきて町工場を営んでいたと思います。
まとめ
このエントリのまとめとしては、(興味がなくても良いんだけど)父や祖父が存命なうちに自分の家をことを聞いておくことをオススメします。亡くなってからだと何も聞くことができなくなります。
宮崎県には、今でもたくさんの和田さんが住んでいるみたいなので、いつか行ってみたいですね。