千歳烏山に縁深い武将に高橋氏高(たかはし うじたか)がいる。
高橋氏高は、高橋高種(たかはし たかたね)の次男。高橋氏種(うじたね)とも呼ばれていたようだ*1。
氏高の兄、そして高橋高種の長男の高橋綱種は屈指の勇将であったことと、大永4年(1524年)の江戸城攻略の功績から北条氏綱の養子に入り、氏綱の偏諱を受けて、北条綱高(ほうじょうつなたか)と名乗るようになる。綱高は北条五色備(ほうじょうごしきぞなえ)の赤揃えを率いて活躍したと言われている。
おそらくだが、嫡男である綱高が北条家の養子に入ってしまったため廃嫡され、氏高が高橋家を継ぐこととなって、高橋家の通し字である「種」の字を継ぎ、氏種を名乗ったのではないかと思われる*2。
高橋氏高と千歳烏山との縁は、北条氏康の扇谷上杉方攻めの際の話になる。13歳で扇谷上杉家の家督を継いだ朝定は、難波田弾正忠広宗を守将として深大寺古城の修復に当たらせ、川越防衛戦のひとつとした。この時、難波田広宗が修復した深大寺城の遺構は現代に伝わっている。
高橋氏高は、深大寺城の付城として、烏山砦・烏山城(高橋城)を築かれたとされている。兄の北条綱高は牟礼(三鷹市)に砦を気付いた。共に深大寺城の付城として築かれた砦ではあったが、北条方は深大寺城などの防衛施設を無視して、一気に川越に攻め入った。のちに氏高・綱高らの兄弟も功績を挙げている。
小田原征伐後について
豊臣秀吉による小田原征伐の後は、氏高の動向は不明である。
兄の北条綱高の子・北条康種は帰農して、牟礼村を開く。その後、高橋姓に複姓したようだ。
官職
文献によって様々だが民部大輔
と書かれているものもあれば、民部少輔
と書かれているものもある。
現代の地名には残っていないが、高橋民部少輔が本拠地にしていたところから烏山のあたりは「民部谷」と呼ばれていたようだ。
新編武蔵国風土記稿による高橋氏についての言及
1804年から1829年に掛けてまとめられた新編武蔵国風土記稿 巻之九十四 多磨群之六の上仙川村の旧家欄によると、
百姓清右衛門 当村ノ里正ナリ。先祖ヲ尋ヌルニ、駿河国江尻ノ辺高橋村二住テ高橋肥後守ト云ヘリ。流浪シテ世田谷ノ吉良ニ因ミアルニヨリテ当国ニ来リ、後金子弾正ノ家名ヲ譲ラレテコノ地に移り住マセシトイフ。
と書かれている*3。現代風に意訳すると、
由緒正しい村長*4の清右衛門に先祖のことを聞いてみたところ、駿河国の高橋村に住んでいた高橋肥後守と言った。流浪してゆかりのある世田谷吉良氏を頼って武蔵国まで来て、その後金子弾正の家名を譲られて仙川に移り住んできたという。
となる。金子弾正は武蔵七党の村山党に属している金子氏の一族と言われ、金子という名前はつつじヶ丘駅の前身の金子駅に残っていたり、バス停の金子や金子厳島神社などに残っている。
高橋氏高ゆかりの地
烏山砦と烏山城は同じものを指していると書かれている方もいますが、ここでは烏山神社境内を中心とした烏山砦、ウテナ化粧品会社を中心とした烏山城と分けて考えたいと思います。小幡晋著の「多摩の古城址」での想像図を参考にしてGoogle Mapsとマッピングしてみました。
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烏山砦(烏山塁)
烏山砦は、烏山神社境内だと想定されているが、激しい住宅地開発に伴い遺構は失われている。
烏山城(高橋城)
烏山城(高橋城)は、株式会社ウテナ敷地内にあったとされ、長さ数十メートルの土塁が存在したと言われているが、世田谷区の住宅地開発に伴い遺構は失われている。