酢ろぐ!

カレーが嫌いなスマートフォンアプリプログラマのブログ。

香川・高松城址(玉藻公園)に行ってきました

前回の丸亀に行った話から少し時間が経ってしまいました。香川旅行の続きです。

台風が近付いているのもあってか、香川という海が近い場所柄なのか陽射しが東京のそれとは大きく違い、日射病になるんじゃないかと思うくらいキツく蒸し暑かったです。

高松駅

丸亀城(亀山)から下山して、高松に向かいました。電車は多くなくて20分近く駅で待ちました。東京にいると始発待ちの時以外はそんだけ待つことないよね。

夏休みに入っているからか、小学生やら部活やらの集団が乗っては降りてをしていて、しばらくすると高松に到着しました。

高松には駅ビルがあり、おぉ栄えてると思いました。

昼食を求めてシンボルタワーに向かいました。香川県就職・移住支援センサー*1がありました。香川への移住の相談や就職支援等してくれるようです。

ちょうどシンボルタワーで看護学学会があったようで、レストランフロアはどこも行列ができていました。すぐに店内に入れそうになったかので、撤退して駅前のうどん屋に行くことにしました。

めりけんや

高松駅最寄りのうどん屋は2件ありました。駅から一番近い「めりけんや」に行くことに決めました。

何が美味しいのか事前調査していなかったので、昨日食べて美味しかった肉ぶっかけをいただくことにしました。すだち肉ぶっかけ(430円)です。

インスタ映えすると聞いて真上からも撮影してみた。

甘いつゆが麺を絡んでとても美味しいです。

高松城址

ふみ櫓跡。線路側に崩れるのを恐れてか網が貼られていました。

そう!これがかの有名な琴電です!

三の丸

三の丸が高松城址(玉藻公園)の入り口になっていました。

三の丸から本丸に向かってかかってる橋は鞘橋(さやばし)です。いざとなったら落として本丸に立てこもることができるようになっています。

琴電側。

二の丸側。少し天守台が見えています。

本丸

地久櫓跡です。

天守台跡

天守台には何もありません。かつては3重4階の天守が建っていたようなのですが、明治期に取り壊されて、それ以降は玉藻御殿が建っていました。

復元工事に伴い御殿は取り壊されて天守台も組み直されたようです。

二の丸

三の丸に戻ってから、水手御門に向かいました。

鉄門(くろがねもん)

普通の掘と違って海水が引かれています。ここだといくら井戸を掘っても海水が出てしまって籠城戦には向いていないのではないか?と思うのですがどうなんでしょうね。鯛の養殖をしていたみたいなので食料には困ることがなさそうですが……

水手御門

披雲閣

桜の馬場跡にあった御殿の披雲閣を三の丸に移築したものの、老朽化が著しいので明治期に取り壊され、大正期になってから再建されたのが現在の披雲閣です。

陳列館

陳列館には、歴代の生駒氏4代・松平氏11代の治世での歴史や出土品が展示されています。高松城址内で唯一冷房がかかっている空間なので、真夏に訪問した際には休憩がてらゆっくり見ましょう。

桜御門

桜御門は高松空襲の際に消失したようです。

艮櫓

現存遺構の艮櫓(うしとらやぐら)です。

帰宅

高松駅から高松空港へ

城巡りを2つすると足がクタクタになってしまいました。シンボルタワーの中にあるタリーズで回復させていました。

高松駅のバスターミナルからバスが出るらしいので16時34分まで待ってました。

高松空港から

ジェットスターで成田まで帰りました。高松空港ら地方空港にしては乗客数が多いのか、空港も大きくてお店の数も多かったです。

ジェットスターは預け荷物が有料だったので、事前に丸亀のホテルから宅急便で送るようにしました。

丸亀から東京までは1,780円と飛行機に積んだ方が安上がりでしたが、ハンズフリーで観光ができて成田から自宅までの長い距離が楽だったので、これからは帰り荷物を送るようにしたいですね。

*1:香川移住ワークセンターと書いてたと思ったけど違ったか

「全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち」を買った

だるさん(id:daruyanagi)がこんなことを言っていました。

大名ガイドならぬ国衆ガイド!

「こりゃあえらいものが出てたんやなぁ」と早速Amazonでポチりました。

全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)

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国衆(くにしゅう)は国人(こくじん)とも言って詳細な話はWikipediaでも読んで貰えれば良いのですが、地元密着型の領主のことです。幕府から派遣された守護や代官はより広域な領地を支配していました。

室町幕府ができてしばらく経つと中央では政争が始まり、地方に対して支配力が弱まります。地方に派遣された守護家は収入をチョロまかして勢力を増して「戦国大名」に変質していきます。

時代のビックウェーブに乗れた守護家は守護大名として活躍していくこととなります。この過程で国衆を家臣として組み込んでいきます。守護大名の有名どころは今川義元でしょうか。

戦国時代を経て江戸時代に入った時点で残っている家は多くはなく、守護大名としては、上杉家・細川家・島津家・佐竹家・宗家など僅かな家しか残れませんでした。

戦国時代のビックウェーブに乗り切れなかった旧支配者層は脱落していきます。いわゆる下克上の時代になり、戦国時代には守護の家臣に組み込まれた国人領主が地元密着型の強み(?)を生かして大名になったりもしました。

国人領主から戦国大名への成り上がりの有名どころといえば毛利元就でしょうか。中国地方を支配していた守護大名・大内氏に仕えて、活躍していた安芸の毛利元就は大内家の内部分裂を誘発させて、最終的には大内氏を滅亡に追い込み、中国地方の覇者となります。

大内氏は勢力を増した国衆・毛利氏に滅亡へ追いやられますが、一方で勢力を増した国衆を取り込んで家名を存続させたのが上杉家です。

越後の国衆・長尾氏は、上杉氏に仕えますが長尾景虎の時代に勢いをつけて、上杉家は家内統一ができず北条氏に追い詰められると上杉憲政は、家臣の長尾景虎に上杉氏の名跡を継がせます。長尾景虎は上杉政虎と名前を変えて越後を支配していきます。のちの上杉謙信です。

……と有名どころについては知ってるのですが、それ以外に関してはほとんど知らないので楽しみです。

しかし、到着が4週間〜8週間待ちとは結構遅いすなぁ……

東京・深大寺城址に行ってきました

住まいを東京東部から東京西部に移してはや3年。生活圏が千歳烏山〜つつじケ丘になってからは深大寺によく行きます。つつじヶ丘駅からだとバスで1本で行き来できるのでとても楽です。

深大寺の近くは散歩に向いているというのと、ドックランもあって犬を連れて散歩というのもよくやります。

深大寺城

さて表題の深大寺城は、上杉家臣の難波田親子が古城を改良したものの、北条軍に城をスルーされて戦場にならず上杉軍は敗走し、北条家の勢力圏が川越まで到達したため無価値になり廃城となりました。

廃城後そのまま放置されていたのが織豊時代の前なのです。石垣を築いてその上に天守をどーんと建てて近代城郭になる前の時代です。戦場にならずに済んだのと電車の沿線から離れていたのが良かったのか宅地開発によって遺構が破壊されることなく当時のままで残っています。

北条家支配時代の遺構が現存するのは国内でもかなり少数なようです。第一郭(本丸)部分には石碑が立っています。

全体像

深大寺城址は、現在の神代植物公園の水生植物園内にあたります。深大寺城の南側は国分寺崖線にあたるため急な坂になっています。さらに水生植物園になっていることからわかるように湿地帯です。

自然の地形を利用した堅城となっています。実際に戦場になっていたら北条方も無傷というわけにはいかなかったと思います。

水生植物園側から見た深大寺城

南側の湿地帯から本丸の方を見上げています。時間帯が悪かったので逆光になっています。

湿地帯から見ています。陰になっている山が深大寺城にあたります。

第二郭跡

家臣の生活空間として作られた第二郭跡です。もう少し時代が後であれば二ノ丸と呼ばれていたかもしれません。

写真は第一郭と第二郭の間にある空堀です。

第一郭跡

こちらは本丸にあたる第一郭跡です。

すっかり枯れ葉に埋もれています。

関連記事

深大寺の守将であった難波田広宗についての記事です。

この他にも城郭・城址について書いています。まとめておりますのでこちらのページをご参照ください。よろしくお願いします。

長野・梅津城址(松代城址)に行ってきました

飯山城が上杉謙信の前線基地だとすれば、梅津城は武田信玄の前線基地です。戦国時代が終わり、江戸時代になると松平忠輝が入封しますが、松平忠輝は早いうちに改易されてしまい、高島城に監禁されてしまいます。

その後、真田幸村(真田信繁)の父の真田信之が入封します。真田氏は沼田領を含む十三万石となりますが、信之の孫の時代に継承問題が発生し、結果的に沼田領が独立してしまい、松代藩は十万石格として明治維新まで続きます。

八幡神社

川中島という名前の割に川の中ではなかった(想像と違った)。川中島は千曲川と犀川の合流地点を頂点とした三角形の土地で沃土な土地だったので、上杉謙信と武田信玄間で奪い合いが発生します。第四次川中島合戦が行われたのが八幡原(現在の八幡神社)でした。

武田信玄と上杉謙信との一騎討ちがあった場所。なお、史実かどうかは不明。

執念の石。

皇太子(のちの大正天皇)が植えた松の木。

所々に土塁が残っています。

松代駅跡

2012年に廃止されたようで線路はすべて取り除かれています。このあたりはすべて外堀に位置する部分。

目と鼻の先に松代城址があります。

松代城址

梅津城址(松代城址)です。

太鼓門。

天守台。

本丸。

二の丸と北不明門。

通るのに不便ってことで土塁にトンネルがあります。

真田邸

9代藩主真田幸教の義母のために作られた御殿で、明治維新後は伯爵に叙爵された真田家の私邸として使われていました。

当然、瓦には六文銭紋が。

象山地下壕

大本営を松代に移動させるにあたって作られた地下壕です。8割方できたところで終戦を迎えたらしく実際には使われなかったとのことです。

真田邸から歩いていくことができます。

ヘルメットを着用して入ります。

中は意外にも寒くないです。空襲に耐えられる岩盤の山を選んだだけあって、天井と床、壁がそれぞれ岩がむき出しでした。

長野・飯山城址に行ってきました

松本からはそこそこ離れている飯山市に来ました。城山公園(じょうやまこうえん)に来ました。兵庫県にある城山城(きのやまじょう)とは同じ字で読みが異なります。というか日本に「城山」という地名が多い……

飯山城址

武田信玄と上杉謙信との争いの謙信(越後側)の前線基地として整備された平山城です。江戸時代に入ってからは飯山藩が置かれ本多氏が入封して明治維新を迎えます。

飯山は明治政府軍と幕府軍との間で激しい戦いの舞台となり、幕府軍によって城下町が焼かれてしまいます。その後、建物は売却されてしまいます。

城門

建物が売却された後、飯山市柳原南条の丸山家に長屋門が移築されます。この門自体は城内にあった門か上級武士の門かは不明ですが、丸山家解体にあたって飯山城址に再び移築することとなりました*1

葵神社

本丸には葵神社があります。

本丸門

本丸門の石垣の上に登って、本丸側から二の丸を見渡しています。

本丸門の虎口

二の丸から本丸側を見渡しています。立派な石垣が建っています。

二の丸から本丸門を見ています。

市民会館

西曲輪には市民会館があって、なにかイベントが開催されていました。

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長野・高島城址に行ってきました

祝日とその翌日を合わせて飯山市まで出掛けています。夜行で出発したら3時半に高島城に着いたので2時間ほど駐車場で寝ていました。若干太陽が昇りかけてきていますね。

高島城に行ってきました

高島城は諏訪湖に突き出して築城された要衝です。日根野氏によって築城されて、その後諏訪氏によって改築されました。

冠木橋と冠木門

冠木橋(かぶきばし)と冠木門(かぶきもん)です。

冠木橋からみた高島城です。

冠木門はやたら立派。

川渡門

前述した通り高島城は諏訪湖に突き出した城であったことから、川渡門から船に乗って諏訪湖に出れたようです。でも諏訪湖からはかなり遠いので本当にここまで湖があったのかはわかりません。

葛飾北斎の「富嶽三十六景 信州諏訪湖」ではこのように書かれているので、やはり湖が城のあたりまで来ていたのだと思われます。*1

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天守閣

復興天守。

角櫓跡

石集配湯枡

諏訪護国神社

廃城令で破却した明治33年に作られたようです。

さて、明日は松本城に向かいます。

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翌日松本城へ向かいました。

blog.ch3cooh.jp

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