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東京都にある城郭・城址

東京23区内にある城または城址をまとめました。

都心部では昭和初期の宅地造形により多くの歴史的遺構が失われています。

名前 備考 所在地
江戸城 現皇居。日本で唯一城郭として機能していると言われている。 千代田区千代田一番
世田谷城 奥州吉良氏の居城。小田原征伐後に廃城。現・豪徳寺 世田谷区豪徳寺二丁目
喜多見城 江戸氏後裔の喜多見氏の居城。喜多見藩の藩庁。 世田谷区喜多見町四丁目
烏山砦 北条氏家臣、高橋氏高が築いた砦。遺構は現存していない。 世田谷区南烏山二丁目
高橋城 北条氏家臣、高橋氏高の居城。遺構は現存していない。 世田谷区南烏山一丁目
中野城山 中野区中野町一丁目
和田城 中野区松ヶ丘一丁目
沼袋陣屋 中野区沼袋一丁目
成宗城 杉並区成田西四丁目
杉並堀之内 杉並区堀之内一丁目
大宮館 杉並区大宮町二丁目
善福寺城 杉並区善福寺二丁目
練馬城 練馬区向山三丁目
石神井城 練馬区石神井一丁目
愛宕城 練馬区上石神井一丁目
牟礼砦 北条氏綱家臣の北条綱種が深大寺城の抑えとして築いた砦。 三鷹市牟礼三丁目
深大寺城 扇谷上杉朝定(おうぎがやつ-うえすぎ-ともさだ) 家臣の難波田広宗が守将の城址。都内では珍しく遺構が現存している。 調布市深大寺

平山城 平山季重(すえしげ) 武蔵七党のひとつ西党日奉(ひまつり)の一族。源義経に従って平家討伐で武勲をあげるものの、鎌倉幕府の実験を北条氏が握ると疎まれるようになった。すえしげの菩提寺は大福寺だったが明治初期に廃寺されたため、宗印寺に移された。

片倉城 源頼朝の家臣 大江広元の子孫 長井道広(みちひろ)室町時代前期に築城した。道広は奥州で伊達氏との戦いで戦死したため、廃城となった。戦国時代に小田原城の支城としていたが小田原征伐で落城した。

小沢城 鎌倉時代の武将、小沢重政によって築城されたと伝えられている。多摩丘陵には北方の第一防衛線として、小沢城、桝形城(ますがたじょう)妙楽寺が置かれ、小沢重政の父 稲毛三郎重成らが拠点にしたといわれている。

高月城 享徳の乱の最中に築かれた。大石顕重(あきしげ)が1458年に築城した。大石氏は、関東管領上杉氏の家臣で武蔵国守護代を務めていた。武蔵国各地に城を持っており、高月城もそのひとつとされている。大石系図によると、大石氏は、高月城を居城にしたあとに滝山城に移ったとされる。

浄福寺城 1525年、大石定重・定久親子によって浄福寺が開かれたとされる。浄福寺城は寺の裏山にあったとされる。大石系図によると1384年に大石信重によって築城された。1524年の北条氏と上杉氏の江戸合戦の際に消失されたとされる。浄福寺はもともと大石氏の館の可能性がある。

高幡城 築城者は不明。1455年第一次立河原合戦で敗走した犬懸上杉憲顕(いぬがけうえすぎ-のりあき)が高幡不動尊金剛寺で自害したことから、その頃には陣所として使われており、北条氏によって現代に残る城郭として整備されていったと考えられている。

滝山城 木曽義仲の末裔とされる大石氏が16世紀に築城したと考えられている。北条氏康の攻撃に耐え抜き、氏康三男の氏照を大石氏の養子に入れることで、大石領を北条氏のものとした。武田信玄に攻め込まれ落城寸前までいったことから、南側のなだらかな斜面が弱点とあきらかになったため、八王子に拠点を移すことになります。

安養寺・田村館 現在の日野市域で活躍した 西党日奉氏の一族 田村氏の館です。田村氏は武蔵国府で運輸に関わる役人で、1275年田村右馬允盛忠(たむら うまのじょう もりただ)が京都八幡宮に三貫文の銭を寄進しました。右馬允の子孫とされる田村安栖(あんせい)が小田原城で御殿医をしていました。安養寺は田村氏の氏寺と伝えられています。

八王子城 四代氏政の弟 氏照によって築城される。1582年にもともとあった山城を改修します。自然を利用した堅固な要塞も、上杉景勝・前田利家の軍勢によって落城される。氏照は小田原城の改修のために家臣や職人を小田原に連れておりそのまま小田原城に立てこもることとなりました。

小田野城 小田野城は遺構が破壊されており、構造的な解明には至っていません。北条氏照の家臣 小田野源太左衛門 が屋敷を構えたとされており、八王子城の出城として作られたと考えられています。

浄泉寺城 近藤砦跡。北条氏照 家臣の近藤出羽守助実(すけざね)が創建した。いざとなれば前線基地とできるように堀が掘られ土が盛られた。

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参考資料

京王帝都電鉄株式会社 広報室発行 多摩の古城址