酢ろぐ!

カレーが嫌いなスマートフォンアプリプログラマのブログ。

2011年3月11日のことを振り返る

Twitter検索で期限を指定してツイートを取得できることを知ったので、当時のことを思い出しながら書いてました。

2011年、嫁(まだ嫁ではない)が東京の大学に行きたいというので大阪から東京に引っ越すことにしました。

当時勤めていた会社に退職する旨を伝えたのですが「ちょうど東京方面に支社を作ろうと考えている」ということでリモートで仕事をさせてもらえるようになりました。しかし、その後、震災の影響でアプリ開発等の案件の数がかなり激減したのを覚えています。

3月11日前のはなし

大阪での勤務最終日です。

2/26に東京に到着。かれこれ実家から出たのも含めて6回引越しを経験しているのですが、これは3回目の引っ越しでまだまだ梱包スキルが低い様子です。当時は漫画を紙で買っていてかつ売る事もできなかったので、漫画だけで段ボールが5箱くらいありました。

おそらく大量にある段ボールを目の前にしてどうやって梱包を解いていこうか考えているところです。3/1を目処にしているので1週間くらいかかる量だったのでしょう。家具の組み立てがかなりきつそうです。

東京での生活の2日目。スーパーで牛肉が売ってない(こともないんだけど種類が少ない)ことに戸惑いを隠しきれていません。

リモートワークに切り替えてからも仕事で忙殺されていて、朝起きてミーティング、深夜まで仕事、みんなが終電で帰るのを見届けたあとに近くのコンビニやスーパーでご飯を買って食べて寝る…という生活でした。外に出る日の方が少なかったです。

牛モツが食べたかったのですがどこにも売ってませんでした。

引越し後の工事諸々。3月だったんだけど仕事部屋にはエアコンが入っていなくて、石油ストーブを使って暖を取ってました。それでも寒かったのでダウンジャケットかフリースを着て作業していました。

ikatomoの開発を手伝ってくれているモノトーン氏とは付き合いが意外と長い。要らなくなったWindows Mobileデバイスを送ったりしていたのがこの頃かな?

仕事の都合でXcode4を導入できなかったようだ

確かこの時はプロジェクトの関係上ずっとXcode 3.2を使うのを強いられてきました*1

具体的に何をやっていたのか覚えてないのですが、春のイベント向けのアプリか野球アプリの開発をしていたような気がします。ようやく納品が終わったのかXcode 4を導入したりして環境を整えていたようです。

3月11日

震災の当日です。特に用事もない普通の平日でした。

いつもどおり朝起きて、近くのコンビニでパンを買って食べて、仕事をしていました。

地震が起こる直前に書いていた記事。前述の通りプロジェクトの合間でゆっくりしていたんだと思います。

記事を投稿したのが14時21分です。ひと休憩したので大阪にSkypeビデオを繋げて何か話をしていたのかもしれません。その25分後に東北地方太平洋沖地震が発生しました。

「これはやばい地震だわ」と感じつつもコードを書いていたら、隣の部屋にいた嫁(まだ嫁ではない)に「早く避難するで!」と引っ張られながら外に出ました。

この時点で携帯電話は使えなくなっていて、Twitterで状況を調べるくらいしかできませんでした。WiFiルーターの置いている場所が良かったのか外に出ていてもネットが使えました。

しばらくして上の階から叫び声が聞こえました。上の階の住人はバイク弄りが趣味なのか扉の横の壁にマフラーを置いてたんですけれど、地震でマフラーが倒れて悲しいかなつっかえ棒のようになって家から逃げられなくなっていました。恐る恐る建物に入って救出しました。

避難する前にお風呂に水を出しっぱなしにしました。結果的には断水することがなかったので必要ありませんでした。

中2階のある4階建てマンションに住んでいたのですが、最上階には大家さんが住んでいて廊下部分に天井に届くくらいの荷物を積んでいました。日頃から危ないなと思っていたのですが地震で見事に倒壊してしまい、4階から3階への階段が荷物で1mくらい積み上がってしまいます。

地震の際に人が下敷きにならなかったのがせめての救いでした。マンションの住人でバケツリレーの要領で荷物を外に出して大家さん部屋まで行けるようになりました。

嫁がバイクに乗ってお隣さんを迎えにいく

マンション暮らしだったのですが、お隣さんは子供がいる若い夫婦が住んでいました。子供は近所の保育園に預けて、お父さんが品川、お母さんが浅草でそれぞれ仕事している家庭でした。

当然電車も車も動かなくなっている状況だったので、子供を迎えにいけなくて保育園に預けっぱなしという状態になっていました。上の階の住人(バイクのマフラーで扉を塞がれて閉じ込められてた人)と嫁とで手分けして迎えに行くことになりました。

道路という道路が渋滞していてほとんど動かない状態で、2人が帰って来たのは22時すぎでした。

実家へ安否の連絡をいれる

当時はLINEが現在ほど普及していませんでした(てか、LINE自体が震災後に作られたプロダクトでしたっけ?)。

インターネットには繋がるのでTwitterはできるのですが、20時になっても携帯電話は全然繋がりません。テレビも原発と津波の話ばかりで、情報を得るにはTwitterしかありませんでした。

Twitterで公衆電話なら電話が通じるという話を聞いて、実家に安否報告をするために僕は公衆電話を探しました。

このとき始めて災害時に公衆電話が無料で使えるようになるということを知りました。震災後には自販機でも災害時にはボタンを押せばドリンクが出るタイプのものが多く普及しました。

この日は夜遅くまで余震が続いていて眠れず、千葉街道の方を見ると延々と行列ができていました。22時を越えると車通りが少なくなる千葉街道なのですが、東京から千葉方面に歩いている人の群れが3,4時まで続いていました。

3月11日後のはなし

2016年現在よりも家から外に出ない生活を送っていました。普段から出ずっぱりなこともあって、家には大量のペットボトルの水とダンボールに入ったカップ麺がありました。

食料に困ることはありませんでしたが、流通が止まってしまって生鮮食品がお店から消えました。コンビニに商品が並ぶのに結構時間が必要でした。肉とか魚、卵と牛乳は入荷してもすぐになくなる…といった状態でした。

一番困ったのはトイレットペーパーでした。2週間〜1ヶ月くらいはトイレットペーパーが常に売り切れの状態になっていてて、当時の上司に大阪から送ってもらってことなきをえました。

*1:昔のXcodeは共存させるのが難しかったような気がする