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茨城・水戸に行ってきました(1) - 水戸城址

水戸まで来たのは別件のついでなのですが、久しぶりに城郭を見にきました。名城100選のうち14番の「水戸城」です!

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水戸城は、那珂川(なかがわ)と千波湖(せんばこ)に囲まれた天然の要塞です。いまも千波湖は残っていますが、大正期の干拓事業と戦後の食糧難の時期に田を増やすための干拓によって大半が埋め立てられています。ところで那珂川といえば艦これでいうところの艦隊のアイドルですね。那珂ちゃんのファンやめます。

水戸城の歴史

常陸国(ひたち)の有名な武将といえば佐竹義重と佐竹義宣ですね。佐竹氏以前の水戸城は誰のものであったか調べました。

水戸城の歴史は古くて元々「馬場城」と呼ばれていました。平安時代に平国香の子孫である馬場資幹が築城を始めたところから「馬場城」と呼ばれるようになりました。室町時代になると江戸氏に押され、代わりに馬場城に江戸氏が入城します。

小田原征伐のときに石田三成の取り計らいによって豊臣方についた佐竹氏への褒美として常陸一国を与えられます。北条方についた江戸氏は追い出され、代わりに佐竹氏が入城します。この際、城の名前を「水戸城」に変えたようです。豊臣家の後押しを得た佐竹義重は、馬場氏(職名から大掾氏とも)の一族を太田城へ招いて皆殺しにします。これにて佐竹氏の常陸統一を成し遂げます。

佐竹義重は隠居して、子の佐竹義宣に家督を譲ります。義宣は恩義のある石田三成方の西軍につこうとしたのですが、父・義重はそれを許さず対立します。結果的には父の方が正しかったのですが、親子が対立していたため家臣団も二分してしまい、佐竹氏の関ヶ原の戦いでは中立を保っていました。戦後処理の際に徳川家康によって出羽国久保田へ領地替えさせられます。これは上杉氏と共謀して徳川軍を追撃しようと目論んでいたためとか、関ヶ原に来なかったので無傷の兵隊が江戸近郊に控えていたのを嫌ったためと諸説あります。義重の嘆願により改易を逃れることができたのは良かったのではないでしょうか。

奥州を睨む要所として、徳川家康は十男の徳川頼宣に水戸城を与えます。

こうして、馬場氏によって築かれた水戸城は、江戸氏、佐竹氏、徳川家によってその都度大規模改修されて今に至ります。

水戸城は徳川家康が政権を握ってから徳川家に渡ったのもあってか、和歌山城や名古屋城のように石垣と天守を築いてガチガチに守りを固めることはやっておらず、土塁と空堀しかありません*1とはいってもその空堀は他とは規模が違うのですが……

水戸城址

さて、本題の水戸城址です。松山城のように分かりやすいシンボルがないので今回は天保期の城郭図を元に、観光ポイントにピンを立てておきました。

水戸藩を二分とした弘道館戦争によっていくつかの藩校の建物が焼かれて、明治政府の廃城令によって大手門が破却されて、先の大戦の空襲で御三階櫓と彰考館が焼かれて、現存するのは「薬医門」と「藩校(弘道館)」のみです。

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現在の地図をGoogle Mapで比較してもらうとわかるのですが、千波湖は埋め立てられて、内堀は道路になっています。

大手前

伊予松山城もそうでしたが政庁である城を中心に道路が整備される傾向にあります。水戸駅から出ると木の生い茂る丘が見えました。そこに向かって歩いていくと道路がありました。県道232号線(市毛水戸線)です。

水戸城は水堀のない城で空堀と土塁が有名なので、市毛水戸線は空堀跡で多分間違いないだろうと木の生えている丘沿いに歩いていました。すると石碑がありました。このあたりは大手町と呼ばれていたみたいです。大手町と呼ばれる町名は日本のいたるところにありますが、大手門の近くに付けられる名前です。

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自信を持ったのでずんずん先に進みます。道路の左右が一段高い丘になっているのがわかりますでしょうか。

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これは立派な土塁だー!

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あとで判明するのですが、少し右上に写っている石橋があります。これが「大手橋」です。手前の階段から上に上がりました。

大手橋

二の丸と三の丸は大手橋によって繋がっています。

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下図は幕末期の大手門です。この写真は三の丸から二の丸方面を見ています。

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現在の大手橋。同じ場所で撮影しています。

大手門は明治の廃城令で破却されて今はありません。将来的にこの大手門を復元する計画があるようです。

三の丸

佐竹氏は三の丸に居館を建てていたようです。現在は弘道館があります。太陽の光が強すぎて正門が写らない……

近付いてみても、日照りが強すぎて影しか写らない。これがiPhoneのカメラの限界か……

参観料200円払うと中に入れてもらえます。弘道館の敷地の中には版木屋さん(?)があって、笠間焼きなど陶器や版画などを売っていました。

水戸独特なのか納豆鉢が売られている。使い道がなさそうだなぁと思って買わなかったけど、お土産には良さそうだった。

おばちゃんが1人店番をしていて、コーラを飲みながらお店について色々と話しをしていました。斉昭公や藤田東湖の直筆の書を版木にして江戸時代から受け継いでる職人さんとのこと。お土産屋のおばちゃんかと思って話ししてました……。すみません。

弘道館の本館。

奥には尊攘(尊王攘夷の意)の書があります。明治維新はここから始まった……のかはわかりませんが、薩長の志士に影響を与えたのは間違いありません。縁側も公開されています。

中に入ると歴代の水戸藩主の資料が展示されていました(撮影禁止)。

使用禁止でしたがトイレと風呂がありました。

風呂です。どうやって入っていたのか不明。湯浴み用なのかな?

しかし、学校なのに何故か風呂があるのか。

二の丸

水戸徳川家は二の丸を居城としていたようです。本丸は江戸氏、三の丸は佐竹氏が使っていたので、縁起を担いで同じところを居城とするのを避けたのでしょうか。二の丸には、藩邸と「彰考館(しょうこうかん)」がありました。

二代目水戸藩主の徳川光圀(水戸黄門のひと)が歴代の天皇の歴史について編纂することを決め、250年の時間をかけて397巻からなる「大日本史」を完成させました。編纂にあたり方針や考察をおこなう施設として用意されたのが彰考館でした。この大日本史の編纂の過程で水戸藩の思想に与えた影響は大きかったようで明治維新の際には藩を二分する戦争に至ります。

彰考館の跡地には、現在二の丸展示館と水戸市立水戸第二中学校があります。

残りは水戸市立水戸第二中学校です。現存する薬医門を模した正門があります。

後ほど写真を掲載していますが、現存する薬医門を模した割には簡易な作りとなっています。こっちはメンテナンスを考えているのかもしれません。

水戸市立水戸第二中学校の正門の隣には、大日本史編纂の記念碑が建っています。

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本丸

二の丸を超えて本丸までやってきました。二の丸から本丸方面を見た図。土塁ってレベルじゃない空堀。

最終的な城主が水戸徳川家なだけあって、空堀のスケールが他の城と比べて段違いに大きいです。

水戸駅方面。

那珂川方面。

場所はこのあたりです。黄色の線が線路として使われています。天保期にあった橋から変わっているでしょうが、当時から二の丸と本丸をつなぐ橋があったようです。

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本丸です。江戸氏の時代には居城が置かれていました。幕末期には武家屋敷が並んでいたようです。本丸には現在、茨城県立水戸第一高等学校があります。もう夏休みに入っているのか部活動をしている生徒以外いなかったので堂々と中に入っていました。

校門を入って道沿いにいくと左手側に薬医門が見えます。

薬医門の正面から撮影しました。

圧倒的な歴史を感じる……

明日はひたちなか市に向かいます。

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*1:和歌山城は南海道の要所で、名古屋城は東海道の要所だっけ?