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喜多見城(喜多見陣屋跡、慶元寺) - 日本にある城郭・城址

喜多見城(きたみじょう)は、東京都世田谷区喜多見にあった城址です。都市開発と共に現在では遺構は失われており、慶元寺にその一角が見られます。

喜多見城(喜多見陣屋)は、元禄2年(1689年)2月に改易によりお家取りつぶしにより消滅してしまいますが、現在の東京23区内に唯一置かれた喜多見藩の藩庁です。

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以下は目次です。

「喜多見」の由来

喜多見周辺は野川があって肥沃な土地だったのでしょうか古代の集落がいくつも発掘されているようです。嘉元2年(1304年)に書かれた史料によると「木田見」と名前が残っているようです。室町時代の中頃に江戸氏は木田見へ移居したことになっているため、その頃は「木田見」と呼ばれていたのでしょう。

どのように変移して「喜多見」になったのかわかりませんが、徳川家康が江戸に入府するのに伴い、江戸氏は喜多見氏に姓を改めたのもあって、現在まで続く「喜多見」になったのかもしれませんね。

慶元寺

慶元寺は江戸氏(と末裔の喜多見氏)の菩提寺で、太田道灌に江戸城を追われ木田見に移った際に移築した寺です。喜多見城址(喜多見陣屋跡)は宅地開発されて現存していません。

門を抜けると杉並木があります。

江戸太郎重長像があります。江戸重長は江戸氏の始祖でもある人です。詳しくは喜多見氏の歴史をごらんください

境内

山門があります。これは宝暦5年(1755年)に建立されました。

右手側を見ると三重塔が見える。三重塔は供養塔らしくこの周りに墓が並んでいます。

江戸氏墓所

江戸氏喜多見氏の墓所はかなりウロウロして見つけました。墓地の入り口から三重塔に伸びている道を歩き、入り口と三重塔のちょうど中間地点くらいにあります。

三重塔は立派でした。何か謂れがあるのかもしれません。

喜多見氏(江戸氏)の歴史

喜多見城の築城主は、江戸氏。

鎌倉時代に、江戸彦太郎重長は次男の江戸小次郎親重(長家)に木田見の地を与え入城させたました。小次郎は苗字を木田見と改め、現在の狛江・喜多見・世田谷あたりを所領としました。

慶元寺は元々東福寺と号しており、江戸重長によって江戸城紅葉山に創建された寺で、前述の通り木田見移居に伴い移された寺です。

江戸重長の子はそれぞれ分家として独立して、根拠地に由来する名前に改姓しています。重長の長男から七男までをピックアップしてみました。それぞれ、現在の東京にも名前が残っている場所に由来するのに気付くかもしれません。

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名前 分家
江戸重長 -
長男 江戸重盛 -
次男 江戸氏重 木田見氏
三男 江戸家重 丸子氏
四男 江戸冬重 六郷氏
五男 江戸重宗 柴崎氏
六男 江戸秀重 飯倉氏
七男 江戸元重 渋谷氏

室町時代に至ると、関東公方足利や管領上杉氏との抗争によって弱体化。武蔵平一揆によって勢いを失った江戸惣領家は没落し、江戸城を扇谷上杉氏家臣の太田道灌に明け渡し、江戸氏は木田見に移ります。

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小土豪化した江戸氏は、世田谷城主の吉良氏ついで北条氏と歴代の支配者に従って生きながらえていました。豊臣秀吉による小田原征伐の時には江戸氏当主の江戸勝忠(のちの喜多見勝忠)は小田原城で籠城していましたが降伏。最終的には江戸に入府した徳川家康の家臣となって所領を安堵されました。

江戸氏は、江戸に入府した徳川家康に配慮して姓を改め喜多見と名乗るようになりました*1。喜多見勝忠は、家康の家臣として関ヶ原の戦い・大坂の陣に従軍した活躍した功績から、江戸氏は譜代大名として存続していきます。

勝忠からみて3代目の喜多見重政は、徳川綱吉の御側小姓に出世して合計2万石となり、喜多見藩を立藩する。喜多見藩の陣屋は喜多見城跡に置かれた。このことから地元では、喜多見城跡とは呼ばれずに陣屋跡と呼ばれている。

しかし、元禄2年に分家筋の喜多見重治が浅岡直国と刃傷事件を起こした咎で突然重政は連座される。この時期、将軍付きの重臣が相次いで失脚していることから陰謀説もある。

元禄6年に重政が死に喜多見藩は消滅。江戸氏の命脈は絶えた。

平城である喜多見城は遺構は宅地開発により数百年の間に失われてしまい、現在では慶元寺の一角を留めています。

所在地

世田谷区喜多見町四丁目

更新履歴

  • 2015/10/3 慶元寺の訪問につき写真を追加
  • 2014/11/15 新規作成

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*1:重長の次男の血筋の木田見家はそのときには既にいなくなっていたのかは不明。